74 ハワイでは観光業で日米バイリンガルが重宝されるので、歯科以外の仕事もしてみましたが、どれも自分の一生のプロフェッションと思えるものではありませんでした。末息子を出産して一年後、主人が、「今なら経済的にもサポートできるし、子どもたちの面倒も僕が見られるから、君は勉強に専念すればいい」と、当時少し躊躇していた私の背中を押してくれ、ハワイで歯科衛生士の資格を再度とるため、大学に戻るチャンスを与えてくれました。 米国では、医科歯科や薬理、法律などプロフェッショナルスクールに行くためには、まず4年制大学でリベラルアーツ(一般教養)を学び、各希望の分野に必要な必須単位を事前に取り終え、学士号を取得することが必要条件になります。1980年代の留学時に、叔母を頼って通ったカリフォルニア大学バークレー校(サンフランシスコ)で日常英会話は習得できていましたが、米国で歯科衛生士という専門職の国家試験に合格できるほどの語学力にはまだほど遠く、ハワイ大学で一からの出直しとなりました。といっても、ハワイ大学の看護学部歯科衛生士学科は、毎年ほんの20人強しか採用しない、合格率のたいへん低い学科で、地元の学生でも一回の挑戦では入学できず、何度も挑戦してやっと合格できるほどの狭き門です。 まずは、歯科専門用語の理解ができるかどうか、これまで培ったみずからの英語力を確認するため、ハワイ大学の傘下であるKCC(カピオラニコミュニティカレッジ)のデンタルアシスタント(歯科助手)コースに通いました。ここで、オール5の成績を修め、ハワイ大学歯科衛生士学科の受験挑戦の確信を得ました。 コース終了後、担当教諭として出会ったSheila Kitamura (北村 シーラ)先生にデンタルアシスタントコースの実習助手として雇っていただきながら、歯科衛生士学科への願書提出条件となる必修単位をKCCで3年かけて取得し、ようやく願書提出までこぎつけました。 いわゆる「入学試験」はなく、願書提出条件であるリベラルアーツの基本科目や必修・必要科目の成績評価(GPA)の高い順にまず人選され、この時点で出願者のおよそ半数以上は足切りされます。さらに、複数回の面接で人柄や性格、責任感の強さ、決心のかたさ、歯科衛生士になりたい理由などが審査されます。私も面接に合計3回呼ばれ、ドキドキヒヤヒヤしながら、学部入学許可証の通知を待ったのを、今でも昨日のことのように覚えています。 2004年にぶじに一発合格したものの、そこからが地獄の日々でした。卒業して免許をもらえれば輝く未来(笑)が待っていると信じてはいても、宿題、課題、予習、復習、実習準備、テスト勉強……などに追われる毎日。すでに2児の母で30代後半の頭脳には、かなりハードな挑戦でした。朝は5時過ぎに起きて、6時から始まるクラスに向けてテスト勉強。授業・実習が終わった後も、予習復習のために、夜の0時過ぎまで勉強。母親業は、もう、どこかにいってしまいました。 特筆すべきは、主人の献身的なサポートでした。毎日の子どもたちの登下校や、お稽古ごとへの送り迎え、食事の支度から掃除洗濯まで、私が徹底的に勉学に集中できるよう、主夫をまっとうし、計6年間支えてくれました。あまりに母親の影がないので、息子のサッカークラブの父兄は父子家庭だと思っていたそうです。 そんな日々のなかでもとくに大変だったのが、“実習用の患者さん探し”です。日本の歯科衛生士カリキュラムでは、学生同士やマネキンを使った実習のみですが、米国では歯科衛生士学主人との結婚によりハワイへ移住することになりました。長女、末息子と4人の貴重な家族写真。KCCで出会った北村先生との出会いは、その後20年以上、現在に至るまで、私のハワイでの歯科衛生士人生に欠かせない存在となっています。狭き門をくぐるため、猛勉強に励む日々合格の安堵もつかの間、次なる試練が……移住先で、もう一度歯科衛生士になりたい
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